法然上人御一代期

①はじめに(一枚起請文を拝して)

 皆様は一枚起請文(いちまいきしょうもん)をご存知でしょうか。

浄土宗を開かれた法然上人が御往生される二日前にお書き残された神仏に誓って裏のない言葉で御座います。

「ただ往生極楽の為にはお念仏しかない。智者の振る舞いなどせずに一筋に念仏を称えよ」と示された言葉にはどのような人生があったのでしょうか。法然上人のご生涯を通してゆっくりと噛み締めていきたいと思います。

 

②法然上人幼少期(会者定離の理に涙して)

法然上人は、平安末期の1133年のご誕生されました。父は漆間時国、母は秦氏です。子宝に恵まれなかったご両親は少し離れた岩間の観音様まで毎日お参りをした所、ある夜、秦氏が剃刀を飲み込む夢を見ました。剃刀は仏門に入られた方が髪を落とす為に使うもの。きっとで立派な人間になるのだろうと喜んでおりました。幼名は勢至丸といいます。阿弥陀様の傍に仕える勢至菩薩から頂いたお名前。とても仏縁の深いお生まれでした。時国は押領使という地方警官のような役職でした。明石源内武者定明というものとの土地での争いがあり、ついに夜襲を受け43歳で命を落としました。その時、時国は勢至丸に遺言を残します。「恨みに恨みで返せばお前もいつか恨みによって命を奪われる。勢至丸。お前は仏門に進み、苦しみの世を離れるのだ」その時、勢至丸わずか9歳(今の7~8歳)でした。

武士としての敵討ちをすることを諌められ、恨みの連鎖を断ち真の幸せを求める仏道を勧められた勢至丸は母方の叔父のお寺に引き取られ、仏教の手解きを受けることになりました。学習能力が素晴らしく自分の手元に置くには惜しい人材だと思い、勢至丸に比叡山に登る事を勧めます。父の遺言を思い出し、勢至丸は比叡山に登る事を決意します。当時比叡山は女人禁制。母が子に会う事など許されず、一度比叡山に登れば認められるまで降りる事が許されない。母である秦氏は、勢至丸を抱きしめて涙を流して送り出しました。
「かたみとて はかなきおやのとどめてし このわかれさへ またいかにせん」

(死別した夫の忘れ形見である息子との別れに、私はどうしたら良いのでしょうか)
法然上人の幼少の時代は、父と死別し母と別れる。無常の世を噛み締め多くの悲しみを背負うお姿でありました。
この時勢至丸15歳でありました。 

③法然上人青年期(聖道門から浄土門へ帰入する)

比叡山に登られた勢至丸は叔父と旧知の仲の「源光」の師事を得ることなりました。その時、叔父に持たせた手紙には、「進上 大聖文殊像一体」(文殊菩薩のように智恵の優れたものを預かって欲しい)と書かれていました。「源光」の元、文殊菩薩の名に恥じない優れた才能を持って仏教の理解を深めて行きます。そして、学僧である「皇円」の元で修行を重ね、出家、受戒を受ける事となりました。その時の戒師が「叡空」であったので、最初の師である「源光」の「源」と「叡空」の「空」の二字を頂き、「源空」という僧名となりました。師匠の「皇円」は源空に天台宗の座主になって欲しいと願っておりました。しかし源空には父の遺言である、「恨み合う世界に留まるのではなく仏門を進み苦しみの世を離れる事を求めよ」の言葉がずっと残っておりました。当時比叡山は僧兵を抱え権力に溺れる姿がありました。それは源空の求めるものとはかけ離れておりました。18歳で「皇円」の元から離れ、西塔黒谷にある青龍寺に身を移しました。青龍寺は仏法を論じ、夏は湿気が酷く、冬は寒さ厳しく、清貧な暮らしをする場所(論湿寒貧)でした。戒師を務めて下さった「叡空」がおられたこの場所で仏教を学び、自分と照らし合わせながらわが身が救われる教えを求めてゆかれました。24歳で仏法を求める為に叡山を降りる許可を頂き、嵯峨の清涼寺に寄られます。「生身の釈迦像」と言われるお釈迦様を在りし時の姿を刻まれた仏像の前で7日間のお篭りをされました。そこで源空が見たものは比叡山での学僧たちがあれこれと議論する姿ではなく、苦しみや悲しみに涙を流し釈迦如来にただただ救いを求めるお姿でした。一部の人だけが議論を交わしながら知識を深める教えではなく、多くの人が仏教によって苦しみから救われる道があるはずだ。源空は比叡山以外に仏教の根付く奈良の南都六宗を尋ねて自分が救われ、多くの人が救われる道を探し求められました。しかし、どこに行っても知的理解に過ぎず、わが身に引き当てた時に現実的な修行ではなかった。源空は青龍寺に戻り、5023巻ある一切経を5度読まれた。地獄一直線の私が救われる教えをお釈迦様は残して下さらなかったのか。嵯峨の清涼寺で嘆き悲しみ祈るしか出来ない人たちにお釈迦様は救いの道を示して下さらないのか。気がつけば18から25年間、経を読み修行に明け暮れておりました。善導大師が書かれた観経ショを更に3度読まれて、ついに、お念仏を称えて阿弥陀佛の本願の力によって西方極楽浄土に往生を願う事こそがこの私の救いの道であり、祈るしか出来ない人たちにとっても唯一の救いの道であることを受け止められました。戒すら保てず絶望の中で捜し求めた源空にとって、幼少より求めに求めた父の遺言を果たしこの私が救われる教えがあった喜び、そして阿弥陀佛がずっとずっと前から私に救いの御手を差し伸べて下さっておられた事へのかたじけない思いが溢れて涙が幾筋も流れ落ち、お念仏を申さずにはおられなかった。43歳春の事で御座いました。

④念佛の広がり(機を見つめ阿弥陀にすがる)

念仏一行で救われる事を確信した法然上人は、比叡山を降り東山(今の知恩院の地)に草庵を設け、多くの方に阿弥陀佛の慈悲を、お念仏を称える事を広めて下さいました。法然上人の噂は瞬く間に広がり、天台宗の(後に座主になられた)「顕真法印」にも届きました。互いに手紙のやり取りでお念仏の受け取りを確認した後、「顕真法印」がこれは皆で議論をするべきだとお考えになられて、大原にある勝林院にて天台宗をはじめとした各宗派の学者が集まり論壇が行われました。全ての宗派の教えは元を辿れば御釈迦様のお言葉。どれも間違いはないし優劣もない。教えを選ぶのではなく、私たちの素質・能力を見た時、生死の世界を離れて仏に向かう教えは阿弥陀佛にすがるお念仏の教えしかないのではないか。法然上人は、仏教を全て学んだとしても私にはその一つも応える事が出来ない愚かな姿であると御自身を見つめられて、お念仏こそが私が救われる教えであり、全ての者を選ばずに救われる教えであると示されました。その場に居合わせた多くの僧侶は宗派を超えて共に勝林院の阿弥陀佛の周りでお念仏を称えられました。その声は三日三晩続き、大原の里を念仏の声で埋め尽くしたといわれております。御念仏の広がりは留まることを知らず、上は皇族、貴族。他宗の僧侶や源氏、平氏の武士、陰陽師、漁師、遊女、下は盗賊まで、多くの方が法然上人に出会われてお念仏の教えに喜び、生涯に渡っての念仏行者になられていきました。源氏の猛将であり、「敦盛の最後」で有名な熊谷直実も、自分の血塗られら過去を見つめ、これだけの罪を重ねれば後の世が地獄一直線であることを恐れ、我が身が救われる教えを求めて法然上人の元に尋ねて行かれました。平氏では、戦の中で部下が東大寺を焼き討ちし、仏を焼くという恐ろしい罪を抱えたまま処刑される「平重衡」にお会いになりました。お念仏一行だけで良い。他には奥深いこともなく、我が身がどれだけ恐ろしい罪を抱えていようとも、阿弥陀佛の救いを信じてお念仏を称える。命の奪い合いをしてきた源氏平氏の武将たちがそれぞれに涙を流し、残りの人生をお念仏に捧げていきました。

⑤流罪から往生(念佛の教えを正しく残す)

法然上人が示されたお念仏の御教えは法然上人の意図せぬ広がり方を見せてきました。「お念仏こそが正しく他の教えや修行は役立たずだ。修行などいらない。」「罪を作るのは仕方がない、だから戒などいらない。」法然上人は、他の教えも同じ御釈迦様が説かれた教え。戒も御釈迦様のお言葉であります。しかし、法然上人の思いは末端まで伝わらず、既存の仏教を批判することとなってしまいました。法然上人はすぐさま、「七箇条の制誡」という念仏者に対する戒めを記し、他宗の方々に申し開きをしました。しかし、それだけでは他宗からの弾圧は収めることが出来ませんでした。弟子の不祥事もあり、弟子は処刑、法然上人は流罪となりました。この時法然上人75歳。弟子たちは法然上人に「ほとぼりが冷めるまでの暫くの間、お念仏を広めることを止めては如何でしょうか。」と提言されましたが、法然上人は「たとえ死刑になってもお念仏の教えだけは言わずにはおられない。」と申して聞き入れることはありませんでした。讃岐の地に流罪となり、その後暫くは大阪勝尾寺に留まりました。その後、恩赦が下され法然上人は京都の地に入る事が許されました。79歳の暮れの事で御座います。翌年80歳の正月に入り、体調を崩された法然上人。病床の中でもお念仏の声大きかった。弟子の信空上人が「他の宗派の祖師は遺跡(ゆいせき)を構えておりますが、どちらに構えましょうか。」とお聞きすると、「一つの場所を定めると、他の場所にお念仏が行き渡らない。お念仏の声する所が私の遺跡です。」とお答えになられた。最後まで自分の栄誉などは差し置いてお念仏の御教えが広まることのみを望まれました。そして、正月23日、弟子の源智上人に請われてお書き残し下さったのが、「一枚起請文」。その二日後の正月25日、最後の最後までお念仏を称えながら、頭を北、顔を西に向け微笑みを絶やさず「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」(阿弥陀佛の救いの光は全ての世界の念仏を称える者を極楽浄土へすくい取り、絶対捨てることはない)と称えて、眠るように御往生をされました。

『元祖大師御遺訓一枚起請文』

唐土我朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。証の為に両手印をもってす。浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。

 

⑥終わりに(ただ一向に念佛すべし)

幼少で父母と別れ無常を感じ、我が身をとことん見つめて悟りから遠く離れた存在だと認め、ただただ阿弥陀佛の救いに喜びを感じながらお念仏を称えること、伝えることに人生の全てを注がれた法然上人。その思いを凝縮された「一枚起請文」を拝読しながら、教えを受け取る私たちも「ただ一向に念仏すべし」でありたいものです。南無阿弥陀仏。参考文献 「図解法然上人」